昭和54年 8月15日 前夜祭
(お茶を飲む)ありがとうございます・・・
御祭典中に、御井教会の初代教会長がまだ(?)中の自分の夏のお祭りの時のことをしきりにおもい浮かべさせて頂いたんです。もちろん、まだ小学校にいってなこころですからたいした記憶はございませんけれども、とにかく、あのありゃー以前夏の御大祭だからとなりの(?)親父になりますが、もう、あのー、かならずスイカのお供えをしておりました。それでもーあのー(?)スイカ売りやさんがあの見えてきますとね、はよーからたのんであるんです、もうあんたがた畑で一っ番(?)あのーというてたのんで、そして本当に子供心にびっくりするような大きなスイカを、おそらく夏の大祭のたんびにお供えしよったのでしょう、あたくしがそれが記憶にのこっております。
もう、とにかくあのー一番りっぱな(?)こりゃ夏の御大祭のことだけじゃないでしょうけれども、初代の一つのお得というか御ヒレイがもうそれこそあの御大際ともなると、あの御広前がわれるようにいっぱいでした。もう夜の御祈念なんか、朝はお参りしよりましたでしょうけれども、ついてまいりませんけれども、ついてまいりますと、もうそこから人連ずれここから人連ずれ(?)ところで山本からこー降りてくる人連ずれがありましたね。どこどこでこう、で、とにかく夜の御祈念でも、あそこにいっぱいの御祈念にお参りしてくる人達があるような御ヒレイを頂いておられた(時代のことです。?)もう信心も生き生きとしてきたとにかくもー、せっかくお供えをさせて頂くなら、もうそれこそとびきり上等のとびきり大きいなのをと、それもまえまえからいらいし、たのんでえーそれをお供えさしてもらう。ね、そういうようなことをずーうおもわせてもらったんですけれどもどうしても、このお祭りというのはね、やはりそういう内容そういう一人一人の生き生きとした信者の心があつめられて、この大祭の御ヒレイとなりもりあがるとなるということです。それがもう、いうならば礼にのって礼のごとしというようなことになったら、もうそれはいうなら、いきおいというのがございません。ね、ですから去年よりも今年というようなものが、その内容の中にはいよいよこめられる。またそういう生き生きとした信心が日頃できなければならんと思う。私は子供の自分にその記憶がありますのは、本当にたいしたやっぱり御ヒレイであったなと思うんですけれども、たのしまるの上の(むぎお?)というところはーから三井教会にたくさんお参りがあっておりました。もう御大祭のときにはかならず(?)の男かたたちがしゃげきをひっかけて、そのまえをとおられる(おうたさんまだですか?)とおらんでいかれよったのをおぼえております。それには、お供えものをいうならばそのー(?)たきものまきまでもそれにいっぱいつんで、4.5人のご信者さんたちがいうなら(?)からですから、そうですねー(二厘?)以上ありましょうか、ところをあのーそしておまいりしておられて、もういきおいがちごうておったなというおもいます。ね、信心のそういうね、そのいきおいとしたいきおいがーねがわれます。そこに神様とのいうならふれあいというか、交流と言うかね、いうならば御大祭を頂いて感動のおまつりを頂く事ができる。今日午後の奉仕をさしてもらいましたら、えーこんどはお米を両サイドにせずにこのかたいっぽに、こちらにビールをしようということでございました。(ところがひょっとのぞきましたら?)お昼がまだあー、十箱(?)九箱しか箱にはったのがございました。ばらになっとると(?)とこでした。そんなら十箱ならべてみてみたらどうじゃろうかというてあんたおかしくなかのといってならべてみたところがとてもひんじゃくなんです。そこえあるかたが参ってだいたいどのくらいあったらあのここがあのーおかしゅうないごとなりましょうか、とこういうんですやっぱすくなくとも二十箱はなかろうといけまいと、そんならあと十一箱あればいいですねというわけで、うん、あと十一箱あればちょっとおかしくはなかろうとこういう、そんならぜーんぶ私が整理させていただきましょうというてかいられた。それからあとからまた次々ときて結局三十人に運んだ。三十人運んでちょうどなんですかきっちりしたことですよね、4*4=16、一人十六箱ずつにれつにならんであるから三十二箱のビールが集まった。私がおもうのにね、そういうその例えばうっかりしておっても、あー、ビールがたらんごついいなさる、そんなら私がおかげを頂こうそういう心が、私ははずんだ心だとこうおもうんですね、どれだけたらんですか、十一箱なら十一箱私がお供えさせて頂きましょうとこういう。ね、そういう一つのいきおいといいますかそういう催しがおこってそれから次々と誰かがこれが何箱というてきたのでしょう、おー、三十二箱になっております。ね、はじめて御大祭まっ勢いというものを前夜祭に感じることができます。今日も午後のときに、大変おかげを頂いて、もー、いうなら(しげまつのかんりにんさん?)ガンでしたから、もー、まっきしょうじょうがでて、というような、(お茶を飲む)お導きをいただいて、お参りをしてくるようになった。ね、おかげを頂いて第一眠れなかったものが眠れるようになり、いたんどったのがいつのまにようなる。最近では自分で車までしてお参りができるようになる。それがうれしゅうしてありがとうしてがたえん。そこでね、こんど、あー、神様にお願いしてある、ことがらからお金が少し入る事になります。そのお金が入りましたら、全額(?)お供えさせて頂きたいとおもいますからばんじお繰り合わせをお願いしますということであった。(昨日?)お届けさして頂きましょうというとったところが、今日その方(おんじん?)参ってみえてです、(笑い)金額は百万円です。もう(?)無礼者ですから百万円ぐらいのことならなんでもないところですけれども、やっぱり、あのー、お金が、というものは、大事なものですよねー、なかなか銀行から引き出してからちゃーお供えすることなか(?)まっそれをないものとしてお供えすることになってそれでお金が入った。ところが奥さんが、そげーん(?)五十万ぐらいでどうですかちゆうちからー、言いなさった。ところが息子が帰ってきてから、僕が一年働かなければ百万円ちゃたまらんよちいうた。もう私は、本当に悲しいってそのことが・・・ね、だからお父さん十万ぐらいおそないしとったらどうのち息子がいう。(はは)だからもうそれをお導きした人はしってましたから、もうそれがはがゆいわけです。もー、夕べねむれんぐらいにそれをかんがえた。ゆうたほうが良いでしょうかどうでしょうかというて私神様にお届けさしてもろうたら、お供えという字を人偏に共という字を頂いた。次に人偏に他と言う字ね、他人の他。まっどちらも(わかっとくがよい?)はあーお供えということは人と共に、それから、このー、こりゃー他人の他というのもー他人人人ということである。ね、これは、自分の心を中心にしないで、いうなら家族のものが裕福にでけたところで不浄のかからんように、それをお供えするほうがよかろうと、あなたもまー、人の事でそのまー、ここでしってますからね、その人が、こういうときにこういうような信心をすればこういうようなおかげをうけられるといった体験をもっておられるのですから、ね、そのことが残念でたまらない。けれどもそれは、もー、(?)をいわずに、まっ、祈らせて頂いてできるなら不浄のかからんそれこそ五万十万でもかまわんけれども、(お供えぐさるようになさったら?)どうだろうか(もういーどもなさりますな?)まっゆうたことですけれども、本っ当に日頃の信心がねこういうときにものいうわけです。ね、はー本当にお母さん、お父さんおかげでしたね、思いがけないきんせんのおかげを頂いて、もうおげなしげおしにお供えができる、有り難い、息子もそれに反対するだんじゃない。というような私は信心が日頃でけておらなければならない。(こりゃこりゃ?)十三日会に鹿児島の佐田さんがもー、それこそ涙を流しながらお礼をいうておられました。もー、私は(おおたこ?)にのせられましたと。おかげていつもより(しょうゆが?)あおかったそれで叶いとそれをもーどうでんこの半分をごぞうえい費にお供えしようち、いうたところに叶いがぽかーんとした顔してから、半分ていいなさらんて゜もーそのまままた(?)御ぞうえいされたらどうですかち、そんときにそれこそはっとうたれるように、本っ当そうやったとおもうたと。ね、そう、問題はね、日頃信心がでけとるとそれができるんです。ね、私は日頃信心がでけとらんとね、お役に立ちたいおやくにたちたいというような一年がいつも心の中に燃えとらな、燃えておるかのようにおもっても、(しょうえね?)はいっていたこの半分をごぞうえい費に、というぐらいにしかおもわなかったけれども、それここそ自分より信心が低はずの叶いが半分なんていいなさらんでそのままお供えされたらどうですかというた、本当そうじゃったとおもうてもー、感動いっぱいでこれはそういうお供えでごさいます。といってお供えされた。ね、日頃の信心がねでけておらんともー本当におかげを受けるか受けないかというときにそういうことになってくるんです。
ね、先日から十三日会のときにあのー、むつや(ろくてん?)の社長であります石井信司郎さんが、皆さんに発表されておりましたが、ちょうど夏の祈願祭に、まる少が、あー、えー、長期合宿をしておりました。ほんでもーえー、それこそお米もいりますねずいぶんと、もう米が一つもないわけです。そいでね、今年は、あーもうとにかく十月まで、お供え量をいえば、米のお供え量だけたくさんきておりますから、だからそれこそ両サイドにつんでもいいのですけれども、せいじ先生が、今年は半分にしてください、そして十月までたべるだけあればいいから、十月の大祭にはまたくるにちがいないから、というなで今日かたっぽになったわけなんです。だからこれが十月までにたべてしまうんです。(ははは)神様は必要なだけは必要なおかげをくださるわけです。というようなわけでしたからもうお野菜なんかもうどれだけあってもたりない。それでえー、会長(ひきとられました?)当時は、高橋さんなあー、その(?)さんにそれをこうよびかけられた。ね、おつけものでもお野菜でも、少しえー、その持って来てえー、そのにあつめてください、あつめますからよろしくおねがいします。ということであった。ね、そんときね、石井しんじろうさんもそのことをきいとったけれども、(?)百姓じゃないから、まーお百姓さんたちが、お供えしなさるだろうから、ね、自分達たちなーそんなお野菜なんてお供えせんでよかろうと、まーお供えというよりももっていかんでよかろうとおもっとった。ところが帰らしていただいたらみしらぬ夫人がみえて、おおきな袋をかついでからみえて奥様はおられておるじゃろうかというてみえた、ちょっと叶いは出ておりますがというたら、実は一年前おたくの住宅のご建築に自分にまー女あのー、おー、いうならなんでしょうかね、どかたのようなしごとわなさるときに大変、奥さんからご親切にしていただいて、もーはようお礼ゆわなならんとおもいよりましたけれども、なかなかできませんでしたが、もう本当に一年またせましたもうほんとうに奥さんからかわいがられたともうしあげてくださいというて、大きな袋にいっぱいじゃがいもとたまねぎとそれにだいずとまでいっぱいはいっとった。そん時に石井しんじろうさんが感じたことです。ね、はー、こりゃーほんに合楽でさっきあげんいいよったから、こりゃ合楽に持っていこうと思うたち(ははは)ね、ちょっと1テンポおくれとるかんじですね、もう本当合楽的にゆうとですね、お話を聞いててはーなんとかならあのーお野菜ちょっとでもお供えさせて頂こうかと思うて帰りましたら、家ではそういうようなおかげを頂いたちゆうよー普通合楽ではそんなおかげ(?)まいりますねもう思うたこと神様はもう受けてくださってある。ところが石井しんじろうさんの場合はそれと反対である。帰ってきてそういう、いうならたくさんのお野菜を頂いて、始めてはー(?)とこれがね、日頃信心をいただいておらんと、そういうようにきずかんです。きずいてもならこればちいっとばっかりあの合楽にもっていこう家にももろうとこう、ということになるんです。そげんしよったんならまた(?)ところからじゃがいもとたまねぎをいっぱい頂いた。それをあわせてまっ(?)もっていかせて頂いたら、ご婦人の方達が、あのー、いうなら食事の準備をしておられる人たちが今日はどーでん(?)いいよるとこじゃったらおかげを頂いたちよろこばれたちはなしをしておられた。ね、たとえばね、1テンポおくれてもいうならば(佐田?)さんじゃないけれども、ね、そっから本当にえー今年は(?)省エネもおおかったから、これを半分はごぞうえい費にお供えしようとこうおもうた、ね、ところが叶いがね、半分とはいわずにこのまままたとないごぞうえいのお供えになさったらどうですかというたときに、本当はーほんとそうだとそれが喜びに受けられた、有り難かったとこういうのです。叶いがいつのまにそういう信心がわかっとったかとおもうと有難かったとこういうのです。まっ感動しながらのお供えでした。
そういうね、私はいきおいとかお供えというもの、ね、信心というものには、それがいる。最近合楽でいわれる地の信心に、天地の信心にのこされておるいうならば、土の信心にきわまったといわれる合楽の信心にです、いうなら今ゆわば天の心の信心というものが、盛んにいわれます。これはもう、限りなくうつくしゆうなる事、しかもそれにはいさぎよさをが、ともならなければなられいということであった。ね、いさぎよさがともなはなければならない。
ね、半分お供えしようと思うとった、ところが叶いからふっときずきられて、ね、そこにいさぎよい心というものがまっげんみつにゆうたらはーほんにそうだったと、いさみこんだ心と共にそれがお供えでけた。日頃信心のけいこをさせて頂いておるから、ね、時分はうっかりしておったけれども、神様の方がさきまわりしてたくさんのおやさいをあつめてくださった、もう、これこそ合楽にもっていかなというそういう心ね、ちょっとしたいさぎよい心なんです。もちろんちっとばっかりもらっておこう、というものではなくて、ね、そこには神様がまけときまっしょ、というように次のまた(ねがいもとで、おもいがけないところから?)それをいただいたとこういうようなおかげにおかげの花が咲くようなおかげをいただくために、私どもがいよいよ、天の信心の追求ををしていかなければなりません。もちろん、土の信心です。ね、受けて受けて受けぬくというその信心を基礎としてその上にかぎりなくうつくしゅうならせていただく信心。ね、もうー、それこそ、ね、神様からちゅっとこうたたかれたら、ぽっとたちあがれる信心、いわいる、いさぎよい信心天の心いわいる合楽にのこされておる、天地(完璧?)の信心というたらいわば、ね、(地の信心地の信心?)土の信心というてきた信心にそういう、今日聞いて頂いたようなところがないようになるところの、天の心を心とする信心がいよいよ求められておるのでは、ないでしょうか。いよいよ、明日のえー、夏のお祭りは、いわいる大祈願祭であります。いうならば、願いの信心であります。ね、ただそれでがむしゃらに願うということだけではなくて、神様が喜んでい頂くような願いに夢中になり無心、に、なるほどしの、祈願祭にならなければならんというふうに私しはおもいます。明日の祈願祭は、そういういみでいよいよ、ね、もー本っ当に、いー、たくさんの人があつまってくるでしょうしまーたくさんの人が、一つになって、ね、神様を受けて下さる本当に、いー、喜んでくださるような一つ、うー、祈願を根拠の御大祭(?)と思います。今日はお祭りがおわりましたら、引き続いて婦人会ございますから、あの、おー、(?)というかたはどうぞ、婦人会にも、御参加いただきたいとおもいます。どうぞ。